黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド

戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

知略の軍師・黒田官兵衛のゆかりの地を巡る

官兵衛の「福岡城」跡戦国時代一の軍師ともいわれる黒田官兵衛は、西播最大の大名・小寺政職、覇王・織田信長、天下人・豊臣秀吉らに仕え、様ざまな合戦に参じ、功績を挙げている優秀な武将。

戦さ場で弓馬を動かす「戦術」よりも、全体を俯瞰し、長期的な計画を立て、いかに敵を倒すかを考える「戦略」を見据えた知的な戦さを得意としたことで、歴史ファンの間でも、長く愛される人物の1人です。

大河ドラマの主役にも選ばれた黒田官兵衛とはどのような人物で、どのような軌跡をだどったのか、そのゆかりの地と共に、詳しくご紹介していきたいと思います。

黒田官兵衛ゆかりの地その1/誕生の地・兵庫編

黒田官兵衛とはどのような人物か

官兵衛が生まれた姫路城いまの兵庫県・姫路城で生まれた黒田官兵衛は、16歳で初陣を飾り、生涯50数度の合戦で1度も負けることのなかった戦の天才です。

京において、織田信長が明智光秀の謀反で横死した際は、主君の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に天下獲りをすすめ、不可能と思われた約200kmの短期移動「中国大返し」に挑みます。

秀吉の天下獲りを阻む関東の名家・北条氏に対する「小田原征伐」では、城主北条氏政、氏直父子が立てこもる小田原城に単身命がけで乗り込み、無血開城を成功させています。

秀吉の天下獲りのために命も顧みず戦ってきた官兵衛ですが、たった一度、「関ヶ原の戦い」に乗じた「石垣原の戦い」では天下を目指したいという自分の野望のため、蓄財を投げ打って私兵を雇い、表向きは九州の西軍討伐を胸に挙兵したともいわれています。

官兵衛が何を考え、どのように行動したのか、まさに歴史ミステリーの1つなのです。

戦国の三英傑をもうならせた才知

官兵衛は「戦国の三英傑」と呼ばれている織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からも一目置かれる存在だったといわれています。それぞれが官兵衛を評した手紙や言葉が残っております。

  • 織田信長
    「及一戦即追崩、数多討取旨、尤以神妙候(決戦を行ってすぐさま敵を追い崩し、数多くの相手を討ち取ったこと、殊勝である)」
    『織田信長感状』より
  • 豊臣秀吉
    「官兵衛の謀は凡人の及ぶ所にあらず(官兵衛の計略は、凡人の及ぶところではない)」
    『黒田家譜』より
  • 徳川家康
    「いまの世に生きながら、古の道を行っているのは如水ただ一人である(下克上の戦国の世にあって、清廉潔白な武士の生き方を通しているのは如水ただ一人である)」
    『名将言行録』より

ともすれば「ずる賢い」というイメージを抱かれることもある官兵衛ですが、この三英傑の評価こそ、彼の優れた人格を如実に示しているといえるでしょう。

ゆかりの地めぐりオススメスポットPick up

官兵衛は59年の生涯で、合戦を通して様ざまな土地を訪れました。その足跡は日本のみならず朝鮮にも残されています。

そんな官兵衛ゆかりの地めぐりで、特にオススメしたいスポットを紹介いたします。

有馬温泉(兵庫県)

官兵衛が傷を癒した有馬温泉旧知であった荒木村重が信長に対し謀反を起こした「有岡城の戦い」では牢に幽閉され、命の危機を迎えます。

1年にも及ぶ幽閉により官兵衛は髪が抜け、頭には瘡ができ、足は曲がらないという満身創痍の状態で助けられました。その傷を癒したのが有馬温泉です。また晩年、体調が優れないときも、有馬温泉へ湯治に出かけています。

有馬温泉は関西の「奥座敷」とも称される日本三古湯のひとつで、歴史のある温泉。官兵衛が仕えた天下人・豊臣秀吉にも縁が深い観光スポットです。秀吉は戦乱で荒廃した有馬を改修し、自ら北政所(正室おね)や茶聖・千利休等を伴って、何度も湯治に訪れたそうです。

官兵衛や秀吉が愛した歴史ある有馬温泉には、現在も旅館やホテルが立ち並び、数多くの観光客が温泉旅行を楽しんでいます。

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大阪城(大阪府)

官兵衛がかかわった大阪城黒田官兵衛は軍師として戦場で華々しい活躍をしていますが、築城にも才能を発揮したといわれています。

大阪城は豊臣政権の拠点となった城で、官兵衛が築城にかかわっています。官兵衛はこのほかにも、自身の居城・中津城や黒田藩の拠点・福岡城、高松城、名護屋城、広島城などの築城にかかわり、縄張りや助言を行いました。

大阪城は姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられています。現在見ることができる天守閣は昭和初期に再建されたものですが、周囲には大阪城公園が整備され、今も大阪の象徴として多くの観光が訪れる名所となっています。

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太宰府天満宮(福岡)

大宰府天満宮筑前国52万3000石を賜った後、福岡城の築城を進める間、官兵衛は、「飛梅」で知られる太宰府天満宮の鳥居の東に宅を移していました。

官兵衛は和歌・連歌の神としても知られる天神様(菅原道真)を崇敬し、夢の中でのお告げにより詠んだ連歌を奉納。境内には現在も「如水(隠居後の名前)の井戸」が残っています。

天満宮は戦国時代の戦火に焼かれて荒廃していましたが、官兵衛はそれを憂いて寄進・再建を行いました。そのため天満宮は黒田家に対し報恩の思いを忘れず、宝物館には黒田家の史料が数多く残されています。

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黒田官兵衛の年表

天文15年(1546年)
赤松氏の重臣・播磨国御着城主小寺政職家臣、姫路城代の黒田職隆の子として生まれる。幼名・万吉。母は明石城主明石正風の女。7才頃から浄土宗の僧侶・円満に師事して素読、手習いを始める。
永禄4年(1561年)
小寺政職の家臣となり、出仕し禄高80石を賜る。
永禄5年(1562年)
父・職隆に従い近隣の土豪を破り初陣を飾る。元服し、通称を官兵衛、諱を孝高とする。
永禄10年(1567年)
志方城主・櫛橋伊定の女光姫と結婚。父・職隆が隠居。黒田家の家督を継ぎ、播磨国姫路城主となる。若いながらも才気があることを見込まれ、小寺家家老を命ぜられる。
永禄11年(1568年)
嫡男松寿丸(後の長政)姫路に生まれる。
永禄12年(1569年)
龍野城主・赤松政秀を青山で迎撃。龍野に追い返す(青山の戦い)、赤松政秀の再来襲。土器山にて敗れるが、同日に夜襲をかけ、これを打ち破る(土器山の戦い)
天正3年(1575年)
主君である政職に天下の趨勢を説き、織田信長への帰順を決意させ、使者となり岐阜城に赴き信長と面談。小寺氏は信長に付き、官兵衛は羽柴秀吉に仕えることとなる。この功績により、信長から名刀「圧切」を賜る。
天正4年(1576年)
英賀で毛利軍・浦宗勝を破る(英賀合戦)。荒木村重を介して感服状を受ける。
天正5年(1577年)
松寿丸を信長への人質として安土城に送る(信長は松寿丸を秀吉に預け、近江国長浜に置く)。中国征伐のため播磨に入った秀吉を姫路城本丸に迎え入れる。秀吉と共に、佐用城、上月城を落とす。
天正6年(1578年)
三木城主・別所長治が信長に謀反。秀吉と共に三木城攻めに向かい、三木城救援の毛利方を阿閉城で撃退。三木城攻めの最中に、摂津有岡城主・荒木村重が信長に謀反。さらに主君・政職も信長を裏切る。
官兵衛は村重説得のため、有岡城に向うが捕えられる。その後約1年間、土牢に幽閉される。
信長が人質・松寿丸の殺害を命ずるが、竹中半兵衛がひそかに美濃の居城に匿う。
天正7年(1579年)
三木攻め中の竹中半兵衛が、三木平井の陣中で病死する(36歳)
村重が有岡城から逃亡。滝川一益が有岡城を攻め落城させ、その際、家臣・栗山利安らが官兵衛を救出。牢での生活で生じた重い瘡、動かない足を治すため、有馬温泉で静養。
秀吉が御着城を落とす。元主君・政職は英賀へ逃れる。
天正8年(1580年)
秀吉とともに兵糧攻めにより三木城を落とす。長治と一族は自害。秀吉に姫路城を譲り、官兵衛は妻鹿国府山城に移転。姫路城改築始まる(翌年3層の姫路城完成)。
天正9年(1581年)
秀吉に従い2万の軍勢で因幡に出陣。鳥取城兵糧攻めを開始。その間、阿波、淡路を計略し、長宗我部氏に備える。城主・吉川経家が自害し、鳥取城陥落。
天正10年(1582年)
秀吉に従い、息子・長政とともに中国攻めに出陣。宮路山城、冠山城など、周辺の城を落とし、毛利方・清水宗治が守る備中高松城を包囲し、水攻めを提案・実行する。しかし、高松城陥落を前に、明智光秀が謀反を起こし、信長が本能寺で自刃。秀吉に主君の仇討ちを進言する。
官兵衛の交渉で毛利方と講和。清水宗治は自害(45歳)。秀吉軍は上方への引き返しを開始(中国大返し)。わずか10日ほどで光秀と対峙し、山崎の合戦で主君・信長の仇を討つ。
天正11年(1583年)
秀吉が大坂城築城工事を開始し、官兵衛が築城工事監督を担当。織田家後継者争いで対立した柴田勝家と秀吉が賤ヶ岳の合戦で激突。長政と共に参戦し、勝家を破る。
高山右近らの勧めによりキリスト教に入信する。洗礼名ドはン・シメオン。
天正12年(1584年)
秀吉の使者として、毛利と宇喜多の領国の境界を確定させる。秀吉と徳川家康の間に「小牧・長久手の戦い」勃発。秀吉が敗退。長政が蜂須賀正勝の女と結婚。
天正13年(1585年)
蜂須賀正勝と共に四国攻めに軍監として参戦し、讃岐国喜岡城、阿波国岩倉城を攻め落城させる。長宗我部元親が降伏し、秀吉が四国を平定する。伊予に赴き小早川氏、安国寺氏、来島氏の境界画定を行う。秀吉が関白宣下を受ける。
天正14年(1586年)
従五位下勘解由次官に任ぜられる。九州攻めの先駆けとして進軍を命じられた小早川隆景、吉川元春らの軍監として、筑前国高鳥居城、小倉城、豊前国宇留津城などの城を落とす。
天正15年(1587年)
秀吉の弟・羽柴秀長に従い、日向国根白坂で島津氏と戦い勝利をおさめ、九州攻めの褒美として秀吉から豊前六郡を拝領。土豪たちの鎮圧に乗り出す。城井谷城に立て籠る、豊前国の土豪・宇都宮鎮房を降伏させ、豊前国を一旦平定する。
聚楽第完成。秀吉が大坂より京都に移る。
天正16年(1588年)
領内の一揆を完全に鎮圧。中津城が完成し、豊前国馬ヶ嶽城から本拠地を中津に移す。
天正17年(1589年)
家督を長政に譲り隠居。名を如水軒とする。しかし、秀吉の小田原攻めに従い、総兵力22万で小田原城に向かう。
天正18年(1590年)
講和の使者として小田原城に単身乗り込み、北条氏政、氏直を説得。北条氏を降伏させる。秀吉が関白を秀次に譲り、以後太閤と称する。
天正19年(1591年)
秀吉が朝鮮出兵を決意。準備を始め、官兵衛もこれに備えて、名護屋城築城の縄張りを行う。
文禄元年(1592年)
総兵力16万9千。小西行長、加藤清正、黒田長政を大将に、朝鮮出兵が開始される。官兵衛も秀吉の命令を伝えるために朝鮮に向う。宇喜多秀家の戦略会議において軍略を行うが、病のために帰国する。
文禄2年(1593年)
秀吉の命により、浅野長政とともに再度渡鮮。石田三成、大谷吉継らが戦況確認に訪れるが、三成の讒言により、不協和音が生じる。この件も手伝って、官兵衛は無断で帰国。秀吉の勘気を蒙る。これを避けるために剃髪し如水と号し、自ら謹慎する。この年、自然休戦に入る。
慶長元年(1596年)
文禄3年(1594年)には朝鮮在陣の諸将が帰国。名護屋在陣の将兵も国元に戻っていたが、明からの国書が日本側の要求を無視していたため秀吉が激怒。秀吉は再び朝鮮出兵を命令する。
慶長2年(1597年)
長の役が始まる。官兵衛も朝鮮に渡海し、小早川隆景の軍監として釜山に在陣する。
慶長3年(1598年)
梁山城で明・朝鮮連合軍に勝利。秀吉の命により一時帰国し、伏見で戦況を報告するも、まもなく秀吉が伏見城にて死去(62歳)。五大老は秀吉の死を秘して、朝鮮からの撤退を決定する。
慶長4年(1599年)
前田利家が大阪城に移り、秀吉の遺児・秀頼の後見人となる。長政が清正、福島正則らが石田三成を襲撃。三成は居城・佐和山城に隠棲。官兵衛は家康の許可を得て、中津に帰る。
慶長5年(1600年)
家康と光秀の間に不穏な空気が流れる中、長政が妻である蜂須賀正勝の娘を離縁。代わりに家康の養女・ねね姫(保科正直の娘)と婚姻を結ぶ。
家康が会津の上杉景勝攻めのため大坂を出陣した隙に、三成が打倒家康のため全国の大名に挙兵を促す。戦に備えて、大阪に居た光姫、ねね姫を栗山利安らが中津へ逃がす。
世の中の目が関ヶ原に向いている間を突いて、官兵衛は九州の西軍を攻撃すると同時に、自らの九州統一を胸に中津城を出陣。豊後国石垣原にて大友吉統を破る(石垣原の戦い)。
しかし、関ヶ原では、東軍・家康がわずか1日で西軍・三成を撃破(関ヶ原の戦い)。官兵衛はその後も加藤清正と共に立花宗茂を降伏させるが、家康から停戦命令が出る。官兵衛の天下獲りはここで夢と終わった。
関ヶ原での功績により、長政が筑前52万3千石を与えられたのに伴い名島城に移る。
慶長6年(1601年)
長政は筑前国福崎を福岡と改め、福岡城の築城を開始。
命名の由来は、黒田家発展の備前国福岡。
慶長7年(1602年)
大宰府天満宮に社殿を寄進し、社料として2000石を献じる。ねね姫が長政の嫡男(後の福岡藩二代藩主忠之)を出産。
慶長8年(1603年)
徳川家康が、江戸に徳川幕府を開く。
官兵衛、有馬温泉へ湯治に行き越年。福岡城二の丸に家を建て光姫と侘び住まいを始める。
慶長9年(1604年)
京都伏見屋敷の自邸に戻る。死期を悟っていた官兵衛は、栗山備後に長政のことを託し、形見として「合子形兜」を与える。4月19日(慶長9年3月20日)、病気のため伏見屋敷にて死去。(59歳)京都大徳寺の塔頭・龍光院に葬られ、博多の崇福寺に分骨される。戒名は「龍光院殿如水圓清大居士」。

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