戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

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小早川隆景/豊臣秀長

黒田官兵衛という軍師が持つ知略を称えた、秀吉の弟・秀長と毛利一族の知将隆景を紹介します。

官兵衛と共に中国・四国攻略に努めた秀吉の弟

豊臣秀長は豊臣秀吉の異父弟(同父弟という説もあり)として、天文9年(1540年)に誕生しました。秀吉に仕え始めた正確な時期はわかっていませんが、秀吉とおね(高台院)の婚儀が行われた永禄7年(1564年)以降であるという説が一般的です。

秀吉のよき補佐役として、天正元年(1573年)、秀吉が浅井氏を滅ぼし長浜城主となると、城代を務めるなど、要職を任されるようになります。兄弟ということを別としても秀吉の信頼は厚く、天正3年(1575年)、羽柴の名字を与えられています。

秀吉が中国攻めの総司令官となると、山陰道および但馬国平定の指揮を任されたため、官兵衛とも帷幕を共にすることもあったと思われます。秀吉が官兵衛にあてた直筆の手紙に、信頼の代名詞として「小一郎」(秀長の通称)の名が残っています。また、官兵衛が有岡城での傷を癒した有馬温泉には、秀長も湯治のために度々訪れたという記録も残っています。

豊臣の天下~戦国一の知恵者~

秀長のすごいところは、政治家としても武将としても一流でありながら、おごることなく、周囲の家臣や武将たちに尊敬されていたところです。秀吉軍の人間関係を上手く調整していたのは秀長だといっても過言ではありません。

秀吉軍の要であった秀長ですが、秀吉の天下統一を待たず、天正19年1月22日(1591年2月15日)、大和郡山城内で病死してしまいます。享年52歳。秀長の死後、秀吉の暴走を諌める者がいなくなったため、豊臣家は滅亡したという説もありますから、もし秀長が長生きしていたら、歴史は変わっていたかもしれません。

毛利一族を支えた小早川隆景

小早川隆景は、巧みな策略を用いて、安芸の小規模な国人領主から中国地方ほぼ全域を支配し、「謀将」と呼ばれた毛利元就と妙玖夫人の3男として、天文2年(1533年)に生まれました。

幼名は徳寿丸。天文11年(1541年)に小早川氏の養子となり、同じく吉川家に養子に出された次男・元春とともに、「毛利両川」の1人として毛利氏の発展に尽くします。また元就の死後、孫である輝元が家督を相続すると、後見人として厳しく指導しました。

当初は織田家と敵対し、中国攻めを任された秀吉や官兵衛とも兵刃を交えていましたが、信長の死後、秀吉が柴田勝家を破り、後継者として台頭してくると羽柴勢として従属。その後は秀吉に積極的に協力し、「四国攻め」「九州征伐」「小田原征伐」、さらに「文禄の役」にも参戦し、天下統一に多くの功績を残しました。

文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居しますが、その際、秀吉からは筑前に5万石という破格の隠居料を拝領しています。また秀吉は隆景のことを「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」とまで評したそうです。

黒田官兵衛ゆかりの地/中国・四国編

奇才・黒田官兵衛の底知れぬ能力を知る

官兵衛とともに秀吉の天下獲りを助けた隆景は、官兵衛の才知を誰よりも認めていました。

例えば隆景は官兵衛に対し、「あなたは頭が良すぎるから、物事を即断即決してしまい、後悔することも多いでしょう。私には、あなたほどの才知がない。だから判断に多くの時間をかけるため、後悔することが少ない」と指摘したそうです。隆景は官兵衛の能力を認めながら、そのもろさも看破していたといえます。

隆景が亡くなった際、官兵衛は「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたと伝えられています。

その反面、秀吉と同じく隆景は官兵衛の恐ろしさも十分承知していました。秀吉は「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、それは官兵衛」と言っていますし、隆景は家臣に「官兵衛が休息地を求めても貸すな」という言葉を残しています。隆景は自分生きている間はまだしも、自分の死後は安心できる相手ではないと考えていたようです。

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド