戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

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黒田長政/加藤清正

九州に領地を得た黒田官兵衛は、嫡男・黒田長政、武勇で知られた武将・加藤清正らととともに秀吉の天下獲りを支えました。

竹中半兵衛に命を救われた黒田家の嫡男

筑前福岡藩初代藩主・黒田長政は、永禄11年(1568年)12月3日、黒田官兵衛の嫡男として播磨国姫路城に生まれました。幼名は松寿丸。わずか9歳で織田信長の人質となり、羽柴(豊臣)秀吉に預けられ、近江国長浜城で過ごします。

黒田官兵衛ゆかりの地/兵庫編

天正6年(1578年)、謀反人・荒木村重の説得に行った官兵衛が長く幽閉され、裏切りを疑った信長は松寿丸を殺すよう、秀吉に命じます。しかし、松寿丸は秀吉の軍師・竹中半兵衛によって助けられ、後に救出された官兵衛と再開。その後は父と共に秀吉に仕え、「賤ヶ岳の戦い」「朝鮮出兵」などに参戦。数多くの戦功を挙げています。

織田配下~絶対絶命の有岡城~

秀吉がこの世を去った後は、石田三成らと対立。徳川家康と誼を通じるようになり、「関ヶ原の戦い」では東軍武将として活躍します。また長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家などの寝返りを促すなど、官兵衛さながらの謀略活動も行い、東軍を勝利に導きました。

それらの功により、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)に52万3千石を与えられます。

官兵衛の夢のあと
黒田官兵衛ゆかりの地/福岡編 

戦上手な豊臣秀吉子飼いの武将

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張国に生まれます。母・伊都が豊臣秀吉の生母・大政所の従姉妹(遠縁の親戚とも伝わる)だったことから、当時長浜城主だった秀吉に小姓として仕えることになります。

その後は秀吉子飼い野の武将として、天下獲りに武を持って応え、様ざまな合戦で活躍しました。特に「賤ヶ岳の戦い」では、のちに「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる素晴らしい武功を挙げています。

終生秀吉に忠義を尽くした清正は、秀吉から恩賞を受けるとき、「肥後半国と讃岐国とどちらかを選べ」と言われたとき、「朝鮮出兵」の先鋒となるために肥後を選んだといいます。

清正は武勇に優れているだけでなく、為政にも才能がありました。肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、有名な築城や治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮しています。

黒田官兵衛ゆかりの地/大分・熊本編

関ヶ原の戦いで二人が官兵衛にもたらしたもの

秀吉の死後、同じ小姓であった石田三成と対立した清正は、徳川家康に接近。「関ヶ原の戦い」で、清正は九州に留まり、官兵衛とともに東軍に協力して小西行長の宇土城立花宗茂の柳川城などを開城・調略。九州の西軍を次々と破る活躍をします。その結果、家康から肥後南半を与えられ52万石の大名となりました。

清正が十分な恩賞を得たことから見ると、官兵衛は関ヶ原に「あわよくば天下を」という野望を抱いていたとも考えられていますが、どうやら清正にはそこまでの気持ちはなかったように思われます。

一方の長政は、謁見した家康が3度も手をとるほど感謝したという活躍をしたのですが、それを聞いた官兵衛は「内府(家康)が頂いた手は右手か左手か?」と長政に問います。長政が「右手です」と答えると、官兵衛は「内府が右手とっている時、お前の左手は何をしていたのだ?」と苦笑い。この言葉には、「左手でなぜ家康を刺し殺さなかったのか」という意味が含まれていたのです。

なお長政は官兵衛(洗礼名はドン・シメオン)同様キリシタン大名でした。その後、徳川幕府からキリスト禁止令が出たため、黒田家はそのことを書面などから省いたそうです

時代は徳川へ~運命の関が原~

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド