戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

HOME » 黒田官兵衛ゆかりの人物たち » 小寺政職/荒木村重

小寺政職/荒木村重

若き黒田官兵衛が最初に仕えた西播磨の武将・小寺政職、官兵衛を人生最大の窮地に追い込んだ有岡城の荒木村重を紹介いたします。

官兵衛の才能を高く評価した最初の主君

黒田官兵衛最初に仕えた小寺政職は、永正14年(1517年)、赤松氏の重臣小寺家に生まれました。祖父の代までは姫路城を本拠としていましたが、政職の代には御着城に居を構えています。

播磨国内での小競り合いを繰り返し、西播磨有数の武将になりますが、この間に和夫多くの家臣を登用。その中には官兵衛の祖父・重隆、父・職隆らも含まれています。

黒田家には目をかけていたようで、政職は重隆、職隆らを家老に引き上げ、姫路城を与えました。官兵衛も父祖の後を継ぎ、家老職に就任しますが、その際、政職は自分の姪にあたる光姫を嫁がせています。官兵衛と光姫との間に生まれたのが松寿丸、のちの黒田長政です。

黒田万吉の誕生
黒田官兵衛ゆかりの地/兵庫編

小寺家が織田家につくか、毛利家につくかの決断を迫られたとき、政職は官兵衛の言を入れて、最終的には織田家を選びます

しかし、荒木村重が信長に謀反を起こしたとき、それに呼応して毛利家に寝返ります。しかし、信長の嫡男・信忠に攻め込まれ、御着城は落城。政職は毛利家に落ち延びたと伝えられています。

数奇な運命をたどった武将・荒木村重

村重は天文4年(1535年)、摂津・池田家の家臣として生まれました。しかし三好三人衆(三好政権を支えて畿内で活躍した三好長逸・政康、岩成友通の三人)の謀略に乗じ、池田知正とともに主君・勝正を追放。池田家の実権を握ります。その後は織田信長に仕え、石山合戦、紀州征伐などに赴き、数々の武功をあげました。

信長に重く用いられていた村重が、突然反旗を翻したのは天正6年(1578)年のこと。一度は明智光秀らの説得で思いとどまったものの、家臣・中川清秀の「信長は一度不信感を抱いた部下は、必ず滅ぼす」という進言を受け、有岡城に立てこもります。ここで秀吉は、村重と旧知の関係だった官兵衛を使者として送ります。しかし、村重は官兵衛を牢に幽閉してしまうのです。

約1年の籠城の後、秀吉軍に攻められた村重は有岡城を脱出。尼崎城に移り、さらに逃亡を重ね、最後は毛利家に亡命します。

信長が本能寺に倒れた後は堺へ居住。茶人として利休らと親交を持ち、利休・十哲のひとりとなります。戦国武将の中でも数奇な人生を歩んだ人といえるでしょう。

織田配下~絶対絶命の有岡城~

小寺氏の子孫を支えた黒田官兵衛

御着城落城後、政職の消息は途絶えますが、小寺家は官兵衛の息子・長政によって復興されます。長政は政職の息子・氏職を黒田家に仕官させ、その一族は江戸時代まで続くことになります。

この氏職という嫡男はやや才の乏しい人間で、政職が行方不明になった歳、官兵衛は秀吉に対し、「氏職には罪はありません。私にとっては、旧主の嫡男です」と訴え、内密に客分として預かることを許してもらったのです。

自分を裏切り、生涯最大のピンチに陥れた主君の息子を引き立たてるというのは、なかなかできることではありません。これも信義を重んじるか官兵衛の取りなしがあったのでしょう。

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド