戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

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軍師・黒田官兵衛の軌跡をたどる

生誕から三英傑の下での活躍、そして晩年まで、黒田官兵衛の軌跡とともに、そのゆかりの地をご紹介いたします。

10代で頭角を現し、若き姫路城代となった黒田官兵衛

黒田官兵衛は、天文15年11月29日(1546年12月22日)、播州平野に勢力を持つ大名・小寺政職に仕えた黒田職隆の嫡男として、姫路城で生まれます。幼名は万吉。

浄土宗の僧・円満和尚の元に句読を学んだ官兵衛は、10代の頃から「頭がよい」と評判が高かったようで、16歳で主君・政職の近臣となり、初陣では近在の土豪を討伐。

19歳で元服し、万吉から官兵衛孝高と改名。22歳のときに父が隠居、家督を継ぎ姫路城代・小寺家の家老となりました。

黒田万吉の誕生

豊臣秀吉、竹中半兵衛、運命の出会い

その後、家老として近隣大名との戦を勝ち抜いてきた官兵衛ですが、天下獲りに野心を燃やす織田信長、毛利元就に挟まれ、小寺氏をはじめ播磨の大名たちはどちらに付くかの決断を迫られていました。「毛利に付くべし」という声があがる中、官兵衛は破竹の勢いで領地を拡大する信長に将来性を感じ、織田に組することを主張します。

結局、小寺家は織田家に付くことになり、官兵衛は信長に謁見。その側近・羽柴秀吉、秀吉の軍師・竹中半兵衛と運命の出会いをするのです。

そして迎える、官兵衛の人生で最大のピンチともいえる有岡城の戦い。その窮地を救ったのも、この半兵衛であったといえます。

織田配下~絶対絶命の有岡城~

「関が原の戦い」で天下獲りを狙う!?

官兵衛は秀吉の麾下に付き、信長から命じられた中国攻略に奮戦します。しかし、信長が明智光秀の謀反(本能寺の変)によって死去。秀吉に天下獲りの機会が訪れます。

官兵衛は秀吉を助け、天下統一を実現させますが、その才能に恐れをなした秀吉は、次第に官兵衛を遠ざけることになります。自分の立場を察知した官兵衛は44歳で隠居。息子の長政に家督を譲ります。

1598年、秀吉がこの世を去ると、秀吉の嫡子・秀頼を擁する石田三成と徳川家康の間で後継者争いが勃発。1600年、日本を東西に二分した関が原の戦いが起こり、官兵衛も拝領地の中津で兵を上げますが、彼の心の中にはある思惑があったのです。

豊臣の天下~戦国一の知恵者~
時代は徳川へ~運命の関が原~
官兵衛の夢のあと

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド