戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

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黒田万吉の誕生

後に戦国一の軍師と呼ばれる黒田官兵衛誕生にまつわるエピソードと、ゆかりの地をご紹介。

文学少年?だった黒田万吉(官兵衛)

官兵衛誕生の地「姫路城」黒田官兵衛は、天文15年11月29日(1546年12月22日)、播州平野に勢力を持つ大名・小寺政職に仕えた黒田職隆の嫡男として、姫路城で生まれます。幼名は万吉といいます。

祖父・重隆の代から姫路に根を下ろし、小寺政職に仕官。重隆の才能を高く評価した政職は姫路城代に任じます。

さらに重隆の子、職隆には自分の養女を嫁がせ、この夫婦の間に誕生したのが官兵衛です。

 

官兵衛は6歳の頃から浄土宗の僧・円満和尚の元に句読を学びます。文学に造詣深かった母親の影響もあってか「源氏物語」などを好む文学青年だったようです。しかし、円満和尚から「今は物語にうつつを抜かすときではない」と諭され、武士としての鍛錬と兵法学に勤しむようになったとの逸話が残されています。

もともと聡明な官兵衛はめきめきと頭角を現し、16歳で主君・政職の近臣となりました。また同じ年、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾ったといわれています。

官兵衛の名を広めた「青山・土器山の戦い」

永禄10年(1567年)頃、官兵衛は父から家督と家老職を継ぐと同時に、小寺政職の姪で櫛橋伊定の娘の光姫を正室に迎え、姫路城代に、翌年には嫡男松寿丸が誕生と慶事が続きます。

ですが、播磨国内では赤松氏12代当主・義祐と赤松政秀の間に内紛が勃発。官兵衛が義祐側につき、政秀と刀を交えたのが「青山・土器山の戦い」です。

青山での戦では義祐方が勝利しますが、土器山の戦いでは、織田信長に属する池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受けた政秀が、3000名の兵を率いて姫路城に攻め込んできます。しかし官兵衛は奇襲攻撃を仕掛け、たった300名という寡兵で撃退するのです。この戦さで官兵衛の名は広まります。信長も秀吉も、官兵衛の戦いぶりを聞き及んでいたといわれています。

ちなみに黒田軍と政秀軍が戦ったあたりは現在ゴルフ場となっており、「黒田官兵衛古戦場跡(青山古戦場跡)」と記された石碑が建っています。場内にある千石池は「戦国池」と呼ばれ、「青山の戦いで亡くなった人の首が沈んでいる」との言い伝えが残っているそうです。
 

姫路市内に残る若き日の官兵衛ゆかりの地

黒田氏はもともと源氏・佐々木氏の一族で、近江国伊香郡黒田村(現滋賀県長浜市)住んでいたといわれています。

しかし、官兵衛の曽祖父に当たる高政が足利将軍・義植の命に背いたことで一族は没落。近江から備前・邑久郡福岡郷に移り住みますが、官兵衛の祖父・重隆の代で姫路に流れ、小寺政職に仕えることになります。

黒田家のゆかりの地「廣峯神社」一度は没落した黒田家が小寺氏に仕官できたのは、重隆が黒田家家伝の目薬「玲珠膏」を売り出したところ評判になり、家を再興することができたからだという話が伝わっています。

姫路市街の北に位置する廣峯神社は黒田家ゆかりの地で、この神社の「御師(神社の神符を全国に売り歩いく布教者)」たちに目薬を一緒に売ってもらうことで財を成し、黒田家の礎を築いたそうです。

また姫路市内には、若き官兵衛が仕えた小寺氏の居城「御着城跡」、官兵衛の父黒田職隆が築いた「国府山城跡」などの史跡が残されています。

黒田官兵衛ゆかりの地/兵庫編

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド