戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

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時代は徳川へ~運命の関が原~

徳川家康か石田三成か?「関ヶ原の戦い」の趨勢を見据えた黒田官兵衛の行動とは?

文禄・慶長の役と黒田官兵衛

徳川家康「江戸城」天下統一後、秀吉の目は朝鮮へと向けられます(文禄・慶長の役)。文禄元年(1592年)、黒田官兵衛は総大将・宇喜多秀家の軍監として海を渡りますが、小西行長らの暴走で思い通りの采配が執れず、病を理由に帰国してしまいます。

文禄2年(1593年)には再び朝鮮に渡り、和式城郭の縄張りや後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わりますが、石田三成らとの間に確執が生じ、またも帰国することになります。

この件で秀吉の怒りを買った官兵衛は出家してしまうのです。

慶長2年(1597年)、慶長の役においては総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に陣を張ることになります。「蔚山城の戦い」では息子・長政の梁山城が敵の軍勢に襲われた際、官兵衛は救援に駆けつけこれを退けました。

「関ヶ原の戦い」官兵衛の選択

官兵衛が側近として支え続けた天下人・豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)8月、病気のためこの世を去りました。秀吉の臨終に際して官兵衛は、吉川広家(毛利家の一族)に「近いうちに天下を巡っての戦が起きるだろう」という書状を送っています。

官兵衛の予感はまもなく的中。秀吉の死後、天下獲りを狙う徳川家康と、あくまで秀吉の遺児・秀頼を立てようとする石田三成との間に確執が生まれ、慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津の上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日(8月25日)三成が率いる西軍が豊臣家をないがしろにする家康に対して挙兵。両者の対立は決定的なものになります。

黒田家の当主・長政は、家康の養女を正室として迎えていたこともあり家康率いる東軍に参加。豊臣恩顧の武将を家康方に引き込み、9月15日(10月21日)、東西の雌雄を決する「関ヶ原の戦い」は黒田軍を率いて家康に同行し、多くの武功を挙げました。黒田軍を率いて家康に同行し、多くの武功を挙げました。

一方、中津にいた官兵衛も、家康方(東軍)として行動を開始。中津城の金蔵を開き、領内の百姓、九州・中国・四国から集まった者たちに支度金を与え、9,000人ほどの軍を作り上げるのです。

「関ヶ原の戦い」が、もう少し続いていたら?

9月9日(10月15日)、西軍に与していた大友義統が、毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込んできます。大友軍は、東軍・細川忠興の飛び地(本拠地以外に支配する土地)にある杵築城を包囲、攻撃を開始。城を守っていた武将・松井康之と有吉立行は、官兵衛に援軍を要請しました。

官兵衛はこれに応じ、用意していた軍を率いて出陣。杵築城に向かう途中の諸城を攻略しながら進み、9月13日(10月19日)、石垣原で大友義統軍と衝突します(石垣原の戦い)。最初は苦戦しましたが、井上之房らの奮戦などもあり、黒田軍は大友軍に勝利するのです。

官兵衛は東軍のために戦いましたが、その裏には「天下を獲る」という思惑があったといわれています。官兵衛は関ヶ原の戦いが少なくとも1ヶ月程度は続くと考え、その間、自軍を拡大し、東西が疲弊した隙をついて攻め込む構想を描いていたというのです。

しかし、東西18万人が対峙した天下分け目の戦いは、たった1日で終結。家康軍が一方的に勝利したとの報を受けた官兵衛は、天下獲りをあきらめたといわれています。

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド