戦国一の知略とも評される軍師・黒田官兵衛のゆかりの地をめぐる

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官兵衛の夢のあと

「関ヶ原の戦い」の後、政治の世界から手を引いた官兵衛は領地の発展に力を注いでいきます。

息子・長政が阻んだ?官兵衛の夢

関ヶ原の戦いが1日で収束してしまった原因を作ったのは、何と息子の黒田長政でした。

長政が石田三成方の小早川秀秋を調略し寝返らせたことで西軍の中に不和が生じ、それがきっかけで軍勢に乱れが生じたのです。その結局、西軍は壊滅し、三成は敗走。東軍=徳川家康が勝利します。

官兵衛の「福岡城」跡合戦後、長政は勲功として家康から筑前国名島(福岡)52万石を与え、翌年、官兵衛にも、家康から上方での加増が提示されます。しかし官兵衛はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送るのです。恩賞を辞退したのは、「家康が自分の思惑に気付いていた」ことを、官兵衛自身が感じていたからだといわれています。

後に官兵衛は長政に、「お前には悪いが、あのとき(関ヶ原の戦い)わしはお前を見殺しにして、勝負をかけるつもりだった」と語ったそうです。

天神様を再建し、庵を結ぶ

関ヶ原の戦いの功績で、52万石に封ぜられた官兵衛・長政親子は、旧珂郡福崎で築城を開始。黒田氏ゆかりの地・備前邑久郡福岡にちなんで、新しい城に福岡城、城下町に福岡と名付けます。

城内には10を超える大小の門、47基の櫓が並び、築城には7年の歳月を要したそうです。官兵衛は三の丸に隠居所「御鷹屋敷跡(見上げる丘陵地になっていたため、「御高屋敷」とも呼ばれていました)」を建ててもらいますが。ここは現在「ボタン・シャクヤク園」となっています。

大宰府天満宮また官兵衛は、戦火に焼かれて荒廃していた「大宰府天満宮」を寄進・再建しています。その前に小早川隆景が神殿のみを再興していましたが、官兵衛は楼門、廻廊、末社や橋なども整備したのです。さらに社領二千石を寄進した官兵衛を、天満宮は中興の祖とあがめました。

そのため毎年正月、5月、9月の月忌二十日には官兵衛が好きだった連歌会を催し、それは明治に至るまで続いたそうです。なお官兵衛自身も天満宮を深く崇敬し、2年間草庵を構えていました。その時に使用したといわれる井戸が、今も残っています。

最期までお家を案じた信義の人

福岡での官兵衛はのどかな生活を送りました。御鷹屋敷から外へ出て、庶民とも気軽に話していたと伝えられています。また子供たちが遊びに来て、どんなに部屋でいたずらをしても叱ったりすることはなかったそうです。

しかし最晩年、病の床についた官兵衛は家臣たちの批判をするようになります。

「そんなにひどく言わなくても……」と苦笑する長政に対して官兵衛は、「お前の時代を作るためには、わしは嫌われた方がよい」と言ったそうです。

また自分に何かあっても「追い腹」を切ることを禁じました。それは優秀な人材を失ってしまうと考えたからでしょう。官兵衛は自分が死んだ後も、黒田家が末永く続くように願っていたといえます。

秀吉を天下に導いた稀代の軍師・黒田官兵衛は、慶長9年(1604年)3月20日、病気療養のために住んでいた伏見黒田藩邸において、波乱の生涯を閉じます。享年59歳。辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」

「人に媚びず、富貴を望まず」という訓を残した官兵衛の生き様は、現在も多くの人たちに支持されています。

黒田官兵衛ゆかりの地/福岡編 

 
黒田官兵衛(黒田如水)ゆかりの地めぐりガイド